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海外旅行紀行・戯言日記

海外旅行紀行・戯言日記

ヨーロッパとは何か

評論家、加藤周一の「ヨーロッパとは何か」の一節には次のようなことが書かれていました。何分書かれたのが40年前なので、時代の流れを感ぜらるを得ないが未だ正鵠を得ている所も多いと思ったのです。

“私はヨーロッパの境界をを感じ、境界の内側にヨーロッパと言う一種の統一ある実体を感じる。
同じ統一、アジアには無い。この厖大な地域、太平洋の岸からアラビア海の岸まで、共通の言語、共通の宗教、共通の文化的遺産の支配したことは無い。アジアは一つでは無い。
しかしヨーロッパは、一つであると感じるだろう。至る所に教会がある。又カテドラルがある。そして少なくともその僧院やカテドラルの作られた時代から今日まで、10世紀から20世紀迄のヨーロッパの歴史の持続を感じない訳にはゆかないだろう。”

戦後15年を経過していたが、戦前日本軍部を中心とした「アジアは一つ(八紘一宇)」を完全に否定することで、日本の民主主義の確立を意図したものと考えるのです。近年のヨーロッパ内の民族紛争を見るとヨーロッパは一つとは考えにくいのです。

“しかし旅行者にとって、一番大切なことは、日本を忘れることであろう。事毎にくにを想い出して、或いは味噌汁をを思い、或いは憂国の大使を燃やしていては、他の国のことは碌に分からぬ。ここには計画に基づいた見事な建設がある、と気のついた瞬間に、それに引き代え日本では・・・と考える流儀では、計画に基づいた建設そのものの中に、どんな問題が含まれているのか、考えてみる暇もあるまい。人生に最も必要な精神的能力は、記憶より忘却である。旅行者の特権は、国を忘れると言うことだ。国を出て国に帰る旅行者の、その国との絆はあまりにも強く、安んじてそれを忘れ、時間と能力を見聞の拡大に捧げることが出来る。

ところが、亡命者は、国元に固執する他は無い。その言葉、その食物、その衣服や祭日を異郷に固執して譲らないのが、普通である。故郷へ帰ることは原則として無いからであり、故郷との絆は既に断ち切られてしまっているからだろう。私は中央アジアで亡命のギリシャ人達が一堂に会し、ギリシャ語の歌に聞き入っているのを、見たことがある。歌に聴き入る人々の眼は、異様に輝き、あたかもその歌を忘れまいと努めているかのようであった。

しかし旅行者には、忘れまいと努める必要が無い。我々はいつも故郷と共に生きている。”

1960年代の小田実「何でも見てやろう」から始まった、偏見・固定感の無い貧乏海外旅行には、彼の考え方に共鳴した所が大きかったと思われます。が、時代は変遷を重ね自由な国際結婚での自由な居住地の選択可能と現代から見ると国外生活者には亡命者の悲壮感はありません。
但し、現代でもブラジルからの出稼ぎ労働者がブラジル村などを形成しているのを考えると彼の評論が間違っているとは思えないのです。


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